昭和54年7月16日 朝の御理解



 御理解 第8節
 「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。無信心者ほ      ど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」

 信心をして、おかげを受けてくれよ。おかげが受けられない。どこにおかげが受けられない元があるだろうか、とこうおかげの頂けない元を尋ねる、求める心。それが求道心だと思うんです。私は信心しておっても神様が歯痒い思いをなさり、または不憫な思いをなさりというのがあると思うんです。もちろん無信心者程神は可愛いとおしゃる。信心が無い者は尚更でしょうけれども、これは言うても分からん。
 言うても聞かんのだからまぁ時節を待っておかげを受けたがよかろうと、言う様な御教へがありますように、けれども折角縁を頂いて、信心の何たるかもだんだん分かって、それでいてそのう信心を本当に追求しようとしない。というようなものに、神様は屑の子。いうならば、はがゆい思いをなさるだろう、または不憫な思いをかけられるという信者もあろうかとこう思う。
 どんな中を通らせてもらいよっても、それこそ御神願有難し、神愛有難しというその生き方であれば神様もいうならば鍛え甲斐があるし、必ずおかげが受けられる。今はきついけれども、しっかり頑張れよというものでございましょうけれども、一通りの事が分かっておりながら、それができないというものがあります。昨日は、第四回目の壮年信徒大会があのように盛大に行なわれました。思いがけない方達が参加しておる。
 かというとまたあの人達はどげんあったちゃこにゃでけんのになぁ、という人達が来ていないのが沢山あるんです。日頃おかげ頂きたいおかげ頂きたいというて、一生懸命参ってくる、そのおかげ頂きたい。本当におかげ頂きたいのかと、問いたいような感じがするですよね。今度の壮年大でひとつ本気で、合楽で日頃頂けない講師の先生のお話でも頂いて、そして信心のいうなら知識も広めさせて貰おう。
 信心の分かっていない、助かりにくい自分の信心を,一辺見直させて貰おうと言う様な、本当におかげを頂きたいなら、出て来なきゃおられないはずですよね、だいたいは。けれども出て来とうてもたまなんのだけれども、やはり出て来れないという人もやっぱりあります。お願いにお願いして、いわば楽しんでおったにもかかわらず、病気で頭が上がらん、床の中でまぁ本当に一生懸命お詫びした事でしょう。
 また昨日の朝のご祈念の後に参って来た方なんかも、大変楽しんどったけれども、家内が、「今日は日曜日じゃけんで父ちゃん私しゃ、福岡に遊びに行こうち思いよるけんで、子供ば抱いて来てもらわんならんけんで、合楽に行くのは止めとってくれんの。」ち言うたげな。もう主人になるとが涙ぐんでお届けしました。聞いとって「あんた馬鹿じゃあるのそげなつは、はじき回してなしこっつぁん出て来んの。」ち言いたい感じがするですけれどもです。
 ならこれは親としてね、家の息子は嫁御に頭が上がらんからあげんとは別れろと言うたって、子供まで居る仲だから、まあ本当に不憫な息子だなあと、こういうふうに思うだろうとこう思うんです。嘘じゃない嫁後になろうと(  )せんと言うてまではおらんと思うです。やっぱりそげんとが居りますばい。だいぶん嫁御に頭が上がらんで「あぁそうかうち、言うごたるとがはがいい。
 理屈はそんなら理屈は言う、信心の修行は大体出けとるけれどもいよいよ肝心の時に、そりこそ嫁御に頭が上がらんと言う様なのは、私は神様のふびんが掛かっておるという、のもあるだろうとこう思う。私は思うんですがね、本当にあぁいう会合に一日をいうならば本気で信心に打ち込む。昨日、牟田先生のあ話の中にも、アマとプロの違いをお話しになっておられました。
 それもならプロというのが、必ずしもお道の教師という意味じゃない。本気で信心を頂こうという、姿勢を持っておる者がプロであって、お道の教師をたとえば志しておっても、修行が嫌いでしだごだにするというんだったら、これはねまぁいうならばプロの風上にもおけないのですから、そげんとはプロという意味じゃあない。私は昨日その事の例を、あのう将棋の名人ですかね。名人坂根かなんか言う人の話しを聞いてましたが、内弟子の話しをしておられました。
 これは確かにそうです。この氏子はとか、この弟子はと例えば思いをかけたらか、えって親は師匠はそれに本当なところが分かってもらわんならん。というのでいわば本気でのいうならば鍛え方というか、修行を求める。それを例えば中途半端にして、自分が自分には師匠が教てもくれんからと言った様な事では、本当のいわば将棋指しじゃあないと言った様な話しをなさっておられましたですね。
 本気で自分がね、それで飯を喰わんならんと言う様な思い方をしておるのならば、どういう端からでもおかげが頂ける。もう合楽では、そうでなくても本当にまあ噛んで含めるように、毎日の研修がやっぱそうですけれどもね。普通で修行させて頂くならば、先ず子守り、男でもです。子守りがある雑巾掛けはある。もうそれこそ勝手の御用までさしてもらわんなりません。
 ここは沢山の修行生が居りますから、それはそれちゃんと居りますから、何んにもせんならせんで良い位な事です。そして噛んで含めるように教えられる事でも、関心があるのやらないのやら分からんと言った様なのも居ります。それこそ朝の御祈念ですら無理やりにするのも居ります。それこそ一生懸命やる所はやる、そしていうならば、こうやってなら廊下を通りよると、信者に先生が一生懸命御理解しござる。
 それをじっと廊下の向こうから、こうやって聞き耳を立てて、そのお話しを頂くというのが、大体普通の教会の修行生はそうです。家庭の教会内の仕事でも追い回されておりますからね。たった一人か二人しか修行生が居られんところは。親先生の手にもならんならん、奥さんの足にもならんちゅうごたる。それで女中さんでんないが、女中さんが居らんちゅう所は女中さん代わりまでして、一生懸命信心の稽古をする。その中から信心を頂かせようとする、いうなら向きもあるんです。
 合楽の場合なんかそうじゃない、もう本当にまぁいうなら上膳据え膳のごたる修行ですよね。合楽では。こりゃ結局私に力がないからと思いますけれどもです、だからそこに伝える者受ける者も言うならば者がです、親に不憫を感じさせたり、または歯痒い思いをさせたりと言った様な事では、私はプロの信心は生れんと思うですね。だからプロという事は、なら御信者でも本気で信心を頂こうと。
 いうなら昨日のような、あぁいう壮年大会なら壮年大会を楽しみにして、そして今度の壮年大会でいっちょう本当に何かを頂こうという、姿勢を持ってくれば良いのですけれども、昨日の中には、まぁ誘われて信心はないのだけれどもと、言うて来て居る様な人達もあります。いうなら見げ来とるという程度の人もあります。まぁおかげでそのうまぁ何ですか、お弁当もあんまり余らんですんだようですけれどもね。
 そりゃ思いも掛けない人達で一杯になりましたから、そりゃいいけれどもなら内容がね、本当に自分もあぁ今日もなら研修受けて良かったと、今日の会合に出ておかげ頂いたと、いうて帰れる様な人が果たしてどれ位あったろうか。日頃求めて居る日頃どこに自分の信心を改めていったら、合楽で聞けない話しだから、一つ本気で金光様の信心をまちっと分からして貰おうと、言う様な私は姿勢というか意欲が欲しいと思うですがね。
 その意欲のない人が、私は神様から見て不憫な事じゃとか、または歯痒い事だと言う様な思いをさせる、それを今日は屑の子と言う様に思うて聞いて頂いた。合楽の御信者の皆さんがです、神様に歯痒い思い、または不憫な思いをさせるような、どんな辛い修行があって、あっておる時も生き生きと、それこそ昨日の最後の私の話しの中に出て参りますようにね。
 「楽しき心配」と言う事を仰る。どういう心配事があっても、その神様を信じて疑わない生き方だったら、いや心配というのは一生あるんだと。勿論その心配のその程度というか、子供が心配する様な事には、大人は心配せん様にです、心配の程度が変ってきます。それこそ神様が心配なさる様な、心配出ける様な、私共はおかげ頂きたい。
  けれどもその心配も向こうにはです、この心配の向こうには、どういう神様が力を下さろうとしておるだろうかと思うただけでも、叩かれれば痛い。痛いけれども有難いという者が生れて来る訳なんです。楽しき心配なんだ。ような私は信心をさせて頂くならばです、どういう今が苦労の真中じゃろうかというところを通っておっても、神様がそれをじっと力を受けてゆく事を楽しみに御覧になっておると思うです。
 おかげは頂きたい頂きたいと言いながら、どうでも先生助けて下さいといいながら、そ の助けて下さる受け物を作ろうという、姿勢を作らない事は、これは神様にとって歯痒い思い、いや姿勢を作ろうと思うけれども、嫁御に頭が上がらんといよった人達がです、それこそ涙をのんで参加が出けん勝った人は、神様が言うならば不憫を感じなさる事であろう。神様に不憫を感じさせるような、または歯痒い思いをさせるような信心では、本当のおかげは受けられん、という事を知らなければいけませんですね。            どうぞ。